YとのNY旅行記。レースの空洞部分が物語るもの。

何から書こう。何を書いて、何を書かないでおこう。

書くという行為は、書かないことを選択する行為でもある。作家の小川洋子さんがエッセイの中で、レースは編まれた糸の存在していない空洞の部分こそが雄弁に美しさを物語る、という喩えを使って、語られることの背後に控える「語られていないこと」について思いを馳せることについて書いていらっしゃった気がする(うろ覚えだし、その本は持っているのだけどシンガポールへの荷物には入れてこなかったので正確な記述は確かめられない)。

何を書くか。何を書かないか。

Yとの旅行について書こうとしているが、今ではそれなりに長くなってしまったネット生活の中途、折に触れこれまでも何度かは書いてきた。

やはり同じく、それなりに長くなってきた人生だけど(そして書いていて気がついたけれど、私の人生のおおよそ半分くらいがインターネットがまだ出現してないない時代で、残りの半分がインターネットの出現したあとの時代ということになる。今のところ。そしてその出現というのがWindows95ということだとすれば)、

振り返ることがある思い出は案外数少ない。「世界五分前仮説」という、哲学上の思考実験があるらしくて、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」というものだ。それ以前の記憶はそのときに植え付けられたものだ、という仮定である。その仮説は単なる哲学上のものだけど、時折それが本当なのではないか?と頷きそうになってしまうのは、膨大な思い出があるはずなのに、細部までしっかり覚えている記憶はそれほどないから、であろう。

一つのことをその都度のバージョンで書きなおすこと。そんなふうに、記憶に残存してる度合いの強い人生のイベントを、何度も書き直しながらわたしは生きているような気もする。旅行が楽しかったのはもちろんのことだが、その旅行を書こうとすることは、その旅行から派生した、あるいは旅行にたどり着くまでに起きた、それ前後の時間のあらゆることを見つめなおすということでもある。だからその「目立つ」イベントは、その時代の足掛かりというか、フックのようなもので、それをきっかけに、その時間に深くダイブするためのポイントとなる。

そして、友人Yについてよく登場させてしまうのは、彼女なら登場人物としてわたしが如何様に描写しても気にしないで笑い飛ばしてくれるような気がするという理由で、なにか過去の記憶について書く時、やはり、わたしの記憶を巡る旅の「ペースメーカー」みたいになってくれる登場人物として書きやすいからだ。しかし、リアルの友達にネットの活動はほとんど共有しないで生きてきたので、読まれることもほとんどないわけだけど。以前Yに時々そんなふうに書くものに登場させてるという話をしたら、「ふーん」、で済んでしまい、「あなた、なんか文章書くの好きだったもんねー。大学でみんなそれぞれ進学先に点々バラバラになった頃、あの頃ネットもなかったからさー、〇〇(わたしのこと)から、しょっちゅう分厚い封筒が届くってみんな言ってた」と、昔のことを笑い飛ばされた。読ませてほしいとか、確認させろみたいなことも言われなかったので、特段彼女のプライバシーを暴露するようなことは書きさえしなければ、今後も折にふれ登場人物になっていただくはずだ。(ちなみに、我らの会話は完全に脚色されています。なぜならば、まず標準語で喋ってないから^^;!!わたしたちは二人だけで、あるいは故郷の友達だけで喋ってるときは完全なるコテコテの富山弁で喋ってるので!!そして、富山弁の会話を日本全国出身の読者の皆様にもわかるように標準語に「翻訳」して書き記した時点で、ある程度それは別のものになっているはずだと思ってます。。)

その後、実名でつながるソーシャルメディアが登場しても、アカウントは常に別にしてあくまで連絡用にしか使用してこず、怪しいオタクっぽい文章活動とは紐づけてこなかった(単純に恥ずかしいので^^;)。また、今度は匿名で長い間使ってきたソーシャルメディアの友人たちには、今回のこのブログの存在も打ち明けていない(シンガポールに引っ越したことすら告げてない^^;)。他の人も今の時代、ある程度そうなのかもしれないが、それぞれを切り離して、いくつかの顔を持ちながら、ネットの出現してからのこの四半世紀余りを生きている。でも、それぞれの場所での知人・友人たちを欺いているつもりもなく、いうなれば、それぞれの場所はパラレルワールドのようなものだ。別の場所で別の顔を持っているといっても、別の「パラレルワールド」でのことだから。また、逆に、例えばYが、バーチャルで全然わたしの知らない別の人間関係を持っていても驚かないし、それに、高校時代と違って、リアルの人間関係にも、いくら親しくてももうどうしたって関わることのできない別のリアルの人間関係もそれぞれ持って生きているのだ。成長するに従い。大学時代くらいは、まだお互いの人間関係はほとんど把握しあっていた気もする。でも、そのあとの、職場だの、結婚相手の家の関係だの、現在住んでいる土地でのつきあいなどなどは、たまに会話にのぼることがあっても、もうそれは遠い、知らない世界としか思えない。お互いに。そして、どんな友達に関しても、だ。家族ですら。もう子どもは、親に断りなしに友達と約束をして遊びに出かけていくし、夫の勤め先の人に関しても名前くらいは知っていてもほぼ実態を知らないに等しい…。

さて。

そういえば、うちの子が、(もう10か月も前のことになってて時の流れの速さに驚くのだけれど)渡星時の入国時の隔離中のホテルで読む本としてわたしの本棚にあったのを引っ張り出して選んで荷物に入れてきた江國香織さんの「冷静と情熱の間」を、14日間閉じ込められたあのシャングリラホテルの一室で読みながら、「ヒロインの相手役が、名前は1ページ目に記されてるんだけど、実物が、これでもかとずーーーっと出てこなくて、一体いつ出てくるんだろうと思いながら読み進めるけど、まだ出てこないんだけど!!」と、何度もわたしにそう告げては、「ほんと、一体いつ出てくるんだろうね」と笑いあったのを思い出すのだけれど(当然わたしは遠い昔読んでいるので知っていたのだけど)。

そのときもちらっと考えてはいたけど。「不在がいや増すにつれ、存在感を強めていく。むしろ不在によって存在を描く」っていうことにういて、それからなんとなく考えている気がする。つまりずっと登場しない相手役がレースの空洞部分なんだけど、その不在がむしろ、存在を際立たせる、みたいな、冒頭に書いた小川洋子さんの言葉に繋がるというか。

この本を読んだとき、たぶんわたしもヒロインのように、それなりに若くて(今調べたら1999年に出版されていました。出版されてすぐ読んだ記憶があるので20代の半ばに読んだんだなと)、それより少し前の青春のあれやこれやの記憶はまだまだ生々しい時代だったのだけど、ふと、今のわたしからすれば、あのヒロインの女性もまたあれから、まとまった年月を生きて、じゃあ今は何を思ってるのかな?って想像してみたりしていた。

若すぎるときの痛すぎる記憶によって、ずいぶん老成してしまった女性として描写されていたヒロインは、あのとき実は、たったの30代前半で(当時のわたしから見れば年上の女性だったので大人っぽく見えたものだ)、しかし、彼女もまた同様に年をとり、現在やはり50歳前後の年齢を生きているとすれば、今度はどうやって生きているのかな?みたいな。

案外あの時、激しい恋の相手だった男性などよりも、当時傷つけてしまったもう一人の男性のほうの、人間としての誠実さに遅まきながら気が付いて、後悔しているというか、いや、別れてしまったことを今更残念がっているというわけではなくて、傷つけてしまったことを後悔し、当時の自分の青臭さにゲンナリしつつ、でも、それしか選べなかった自分の若さに呆れながらも、若干懐かしがってもいるかもしれない。

あるいは。また時が流れて、次は、70歳になろうとしているヒロインならば?その年になれば、自分の死期についても考えてしまうだろう、そういう年齢になったならば、またまた、原点に戻る、で、初恋の相手をいっとう恋しく感じて、人生の残り時間をたゆたっているかもしれない。

・・・みたいな、Yとの旅行を振り返ってなにか書こうとしていることから派生したことを書きつけていったら、すでにこんなに長くなってきている。つまりこういうことが、わたしの人生で何度も起きている。なにか軸となる思い出を基に、思考を巡らせる。なにかを書く、でも書かないこともある。そして、結局それでわたしはなにを浮かび上がらせたいのか?でも、いい加減、旅行記の時間を進めないと。

あの電話で、NY旅行に行くと返事をしてからの時間を。

(続く…予定)。

(今回挿絵に使った写真はこちらにくる直前くらいまでの2020年日本で撮ったものシリーズ)。